
この写真は宮城県の雄勝町です。
いまでも捜索活動は続けられています。
大きな観光バスも屋根に。。
海岸から2キロ離れている場所にも船。
仙石線の線路で止まっていました。
この近くには航空自衛隊の松島基地もあります。しかし、基地そのものが津波で被災したので、救助支援に駆けつけたくても出遅れてしまう状況も当初は起きていたと聞きました。
東日本大震災が現実として巻き起こした自然災害は、出来れば実際に見た方が良いとつくづく感じます。僕の場合は、それを見る前と後では、人生の見方が変わりました。
その辛さにあてる言葉はない、でも生きていく意味そ見出すのかもしれません。
まだまだ様々な光景を見てきました。
全て流された病院や多くの犠牲のあった小学校も。。
でも、かならず東北の皆さんは復活されると信じています。
あと、被災地の現状としては、圧倒的に現場は人手不足です。
範囲があまりにも広すぎて、情報がとにかく早く正しく伝えられていないように思います。
他のサイトに記事が載っていました。新聞紙面のようです。
こちらでも、掲載させて頂きます。
私も子供支援を中心に、会社でも石巻の産業を少しでも盛り上げられるよう全力で取り組みます。
ぜひ子供を支援する活動で私たちが支援する
NPO法人グランドワーク三島も宜しくお願いします。会社でも仕事仲間でもグランドワークを軸とした支援の仕組みを作っていますので、アナウンスさせて頂く時には宜しくお願い致します。
<抜粋記事>
宮城県女川町 東日本大震災:両親不明の子供たち 宮城・女川町、11歳と8歳の姉弟
◇無邪気さ、奪われ
◇津波映像に口数減らし「母さんに会いたい」
「お母さんどこ。お父さんは?」。津波で沿岸部が壊滅した宮城県女川町。小学5年の平塚亜美さん(11)と2年の司君(8)姉弟は、いなくなった両親の帰りを待ちわびる。祖父の平塚俊明さん(64)には、あの濁流の中で両親が助かる見込みはないと分かっている。だから幼い孫を見るたび胸を締め付けられる。「この子たちの将来はどうなるのか」と。戦後最悪の自然災害となった東日本大震災の被災地で、多くの「震災孤児」が生まれようとしている。【小泉大士、小林洋子、奥山智己】
姉弟の両親、俊也さん(36)と恵理さん(35)は地震の際、女川湾の観光物産センターで店番をしていた。俊明さんらを含め家族で経営する鮮魚店だ。
「10分後に津波が来ます」という防災無線の声が今も耳を離れない。みんなで約300メートル離れた俊明さん宅まで逃げたが、2方向から来た水に家ごと流された。「おもちゃのように家が浮き上がり、バリバリと音を立てて消えていった」。俊明さんが見たむごい光景だ。中に俊也さんと恵理さんがいた。
高台の小学校にいた孫の亜美さんと司君は無事だった。避難所の町体育館に迎えに行った俊明さんは、2人に言って聞かせた。「お父さんとお母さんは、そのうち迎えに来るからな」。亜美さんは両親の身に起きたことに感づいたのか、夜、シクシクと泣いた。
その後、姉弟は東松島市にある恵理さんの父親(58)に預けられた。無邪気だった司君も最近、「お母さん、早く来ればいいのに」とぐずるようになった。津波の映像がテレビに映ると、2人の口数が急に減る。
俊明さんから見た俊也さん、恵理さん夫婦はとても子煩悩だった。「鮮魚店が忙しくて、なかなか子どもの相手はできなかったけれど、学校の休みには、よく家族旅行に出かけていた」
親がいなくても、孫には元気に育ってほしいと思う。だが自分も避難所暮らしで、まだ先のことを考える余裕がない。
<記事終わり>
多くの想定外の出来事を経験した日本は、私たち一人一人の繋がりから始められる、一つ一つの工夫や支え合いから、新しい日本へのヒントがあると被災地を訪れた経験で見つけられました。